発達障害の診断を受けて感じたこと

霧が晴れたあの日:発達障害の診断名が私にくれた「赦し」と「再出発」
「なぜ、みんなと同じようにできないんだろう」。そんな問いを自分自身に投げ続け、心身ともに疲れ果てていた時期が私にはありました。仕事でのケアレスミス、人間関係での絶妙なズレ、そして日常の些細な刺激に過剰に反応してしまう体質。それらすべてを「努力不足」や「性格の欠点」だと信じ込み、自分を責めることでしか解決策を見いだせなかったのです。
この記事では、30代を過ぎてからASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けた私が、診断を受けるまでの葛藤、診断名を知った瞬間の衝撃、そしてその後の人生がどう変わったかをリアルな体験談として綴ります。今、診断を受けるべきか迷っている方や、診断直後で戸惑っているご家族の方へ、一人の当事者の歩みが何らかのヒントになれば幸いです。
診断前の「名もなき苦しみ」との戦い
発達障害という言葉が一般的になる前、私はただの「少し変わった、扱いにくい人」でした。学校生活では、授業の内容は理解できるのに、ノートを書き写しながら先生の話を聞くことがどうしてもできませんでした。集団行動では、いつの間にか輪から外れてしまい、なぜ友人が怒っているのかが理解できずに立ち尽くすことも多々ありました。
大人になり社会に出ると、この「違和感」は深刻な「困難」へと変わりました。電話を取りながらメモを書くことができず、重要な伝言を何度も忘れてしまいました。「やる気があるのか」「社会人としての常識がない」という言葉を投げかけられるたび、私は自分の存在そのものを否定されているような感覚に陥り、深夜のオフィスで一人泣いたことを覚えています。
「普通」という高すぎる壁
当時の私にとって、周囲の同僚たちが当たり前にこなしている「マルチタスク」や「空気を読むこと」は、まるで魔法のように見えました。私は彼らの動きを必死に観察し、話し方やリアクションを模倣しましたが、それは脳のエネルギーを激しく消耗させる行為でした。夕方には知恵熱が出るほど疲れ果て、土日は泥のように眠り続ける日々でした。
こうした状態は「マスキング(Masking)」と呼ばれる、特性を隠して定型発達者に擬態する行為だったと後に知ります。しかし、当時はそれが異常なことだとは気づかず、「みんなこれくらい我慢しているんだ」「私が甘えているだけだ」と言い聞かせていました。自分を偽り続けることで、自己肯定感は底をつき、次第に希死念慮(死にたいと願う気持ち)すら抱くようになっていきました。
繰り返される「うつ」と身体症状
診断を受ける2026年より数年前、私は何度もメンタルクリニックを訪れていました。診断名はいつも「うつ状態」や「適応障害」でした。抗うつ薬を飲めば一時的に気分は晴れますが、職場に戻ると再び同じミスを繰り返し、人間関係で躓き、数ヶ月でまた倒れるというサイクルを繰り返していました。
体にも異変が起きていました。光の眩しさに耐えられず常にサングラスが必要だったり、特定の衣服のタグが刺さるように痛かったり。今思えばこれらは典型的な「感覚過敏」でしたが、当時は「神経質な性格のせいだ」と片付けられていました。根底にある原因が解決されないまま、対症療法を繰り返す毎日は、出口のないトンネルの中を歩いているようでした。
インターネットで見つけた「自分」
ある夜、眠れずにスマートフォンの画面を眺めていたとき、大人の発達障害に関するコラムを目にしました。「片付けられない」「指示が二つ重なるとパニックになる」「比喩表現が苦手」。そこに書かれていたチェックリストの項目が、まるで私の人生をそのまま書き写したかのように当てはまったのです。
その瞬間、心臓が大きく高鳴りました。もしこれが「障害」なのだとしたら、私の不器用さは性格のせいではないのかもしれない。「努力不足」という呪いから解放されるかもしれない。恐怖よりも、かすかな希望が勝った瞬間でした。翌日、私は勇気を出して、発達障害の専門外来がある病院へ予約の電話を入れました。
💡 ポイント
「自分はダメな人間だ」と責め続けている背景には、自分ではコントロールできない脳の特性が隠れている可能性があります。違和感に名前がつくことは、解決への第一歩です。
病院の門を叩き、診断が下るまで
予約を取ってから受診当日までの数ヶ月間、私は期待と不安が入り混じった複雑な心境でした。「もし診断がつかなかったら、私はただの『能力の低い怠け者』だと証明されてしまう」という恐怖が常に付きまとっていました。しかし、実際に訪れた専門病院では、私の話を丁寧に聞き取り、数日間にわたる詳細な検査を行ってくれました。
知能検査(WAIS-IV)や性格検査、そして幼少期の様子を聞き取る面談。これらの過程を通じて、私は自分の脳がどのような仕組みで動いているのかを、初めて客観的なデータとして見せられることになります。それは、これまでの人生の答え合わせをするような、厳粛で、かつ救いのある時間でした。
知能検査で見えた「脳の凸凹」
検査結果は、驚くほど極端なものでした。言語理解(言葉を扱う能力)は非常に高い数値を示している一方で、作業記憶(一時的に情報を保持する能力)や処理速度(視覚情報を素早く処理する能力)が平均を大きく下回っていたのです。この「能力の差」こそが、私の生きづらさの正体でした。
医師はグラフを見せながら、「あなたは言葉の理解は優れていますが、耳で聞いた情報を処理しながら動くことが物理的に難しい構造になっています」と説明してくれました。私がずっと「魔法」だと思っていた他人の当たり前は、私の脳のスペックでは処理しきれない情報の濁流だったのです。この数値化されたデータは、私の長年の自己否定を打ち砕く強力な証拠となりました。
「ASD」と「ADHD」の併発という現実
最終的な診断名は、「自閉スペクトラム症(ASD)」と「注意欠如・多動症(ADHD)」の併発でした。医師からその言葉を告げられたとき、私は意外にも冷静でした。むしろ、バラバラだったパズルのピースが、カチリとはまったような爽快感すら覚えました。「障害者」というレッテルへの恐怖よりも、「原因が判明した」という安堵の方が勝っていたのです。
医師は私にこう言いました。「これはあなたの性格の問題ではありません。脳の設計図が少し個性的であるというだけのことです。これからは、自分を叱るのをやめて、この脳をどう使いこなすかを一緒に考えていきましょう」。その言葉を聞いたとき、私は生まれて初めて「自分自身のままで生きていい」という許可を、他者からもらえたような気がしました。
家族への報告と周囲の反応
診断後、最も緊張したのは親への報告でした。親にしてみれば「自分の育て方が悪かったのか」とショックを受けるのではないかと危惧したからです。しかし、診断の結果を伝えると、母は少し寂しそうな、でも納得したような表情で「ずっと生きづらそうだったものね。名前がついて良かった」と言ってくれました。
もちろん、すべての親類が理解してくれたわけではありません。「障害なんて、誰にだってある」「個性の範囲内だ」と、診断を否定することで私を慰めようとする人もいました。しかし、私が必要としていたのは慰めではなく、「事実の共有」でした。診断名は、私と家族の間に引かれていた見えない線を消し、適切な距離感で支え合うための新しいルールブックとなりました。
✅ 成功のコツ
診断を受ける際は、幼少期のエピソードをまとめたメモを持参しましょう。親からの聞き取りが難しい場合は、通知表のコメント欄などが非常に重要な客観的データになります。
診断後に変化した「世界の見え方」
診断名がついたからといって、私の脳が急に定型発達者のように変わるわけではありません。不注意によるミスも、集団の中での居心地の悪さも、依然として存在し続けています。しかし、決定的に変わったことがあります。それは、困難に直面した時の「心の持ちよう」です。
以前の私は、ミスをするたびに「自分は死ぬべきだ」とまで追い詰めていました。しかし今は、「あ、作業記憶の限界が来たな。メモの取り方を工夫しよう」と、客観的にトラブルを切り離して考えられるようになりました。この「心理的な距離感」こそが、診断が私にくれた最大のギフトです。
自分を「赦す(ゆるす)」ということ
私は長い間、自分自身を敵だと思って生きてきました。しかし、診断を受けたことで、自分は敵ではなく、少し不器用な相棒(脳)と一緒に歩んでいるパートナーなのだと考えるようになりました。できないことを「やる気がない」と断じるのではなく、「環境を整えればできるかもしれない」という視点を持つようになったのです。
例えば、家事ができずに部屋が荒れてしまったとき。以前なら「女なのに片付けもできないなんて」と泣いていましたが、今は「視覚的情報が多すぎて脳がフリーズしているんだな」と分析します。そして、まずは床の一箇所だけを片付ける、あるいは代行サービスを頼むといった、具体的な「解決策」にエネルギーを注げるようになりました。自分への赦しは、無責任になることではなく、自分を建設的に扱うための土台なのです。
「障害者手帳」と「合理的配慮」の活用
私は診断後、障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)を申請しました。これを持つことで、社会的なサポートを正当に受ける権利があることを再認識したかったからです。また、職場に対しても診断名をオープンにし、「合理的配慮」を求めました。具体的には、指示を必ずテキスト(文字)でもらうことや、音を遮断するためのノイズキャンセリングヘッドホンの使用許可などです。
最初は「わがままだと思われるのではないか」という不安もありましたが、結果は逆でした。会社側も、私の「苦手」と「対策」が明確になったことで、どう指示を出せば私が戦力になるのかが分かり、マネジメントが楽になったと言ってくれました。障害を公表することは、自分を甘やかすためではなく、最大限のパフォーマンスを発揮するための、プロフェッショナルな誠実さなのだと学びました。
新しいコミュニティでの出会い
診断を受けてから、私は発達障害の当事者会に参加するようになりました。そこで出会った人々は、私と同じような「名もなき苦しみ」を生き抜いてきた戦友たちでした。会話の端々に「あ、それ分かります!」という共感が溢れ、自分が世界の異端児ではないことを確信できました。
彼らとの交流を通じて、私は自分の特性を「笑い飛ばす」強さを身につけました。忘れ物をしてしまったとき、「またADHDしちゃったよ」と笑い合える仲間がいること。それは、孤独という名の最も重い障害を取り除いてくれました。一人で抱え込んでいた時は重荷でしかなかった特性が、仲間と共有することで、個性的で愛すべきエピソードへと昇華されていったのです。
⚠️ 注意
診断は「ゴール」ではありません。診断がついた直後は、これまでの人生を振り返って大きな喪失感や怒り(悲嘆のプロセス)に襲われることもあります。焦らず、自分のペースで受け入れていきましょう。
生活を豊かにする「障害特性との共存」ハック
診断を受けてからは、自分の脳の癖に合わせた「ライフハック」を実験するのが日課になりました。これまでは「定型発達者のやり方」を無理に真似して失敗していましたが、今は「発達障害者のためのやり方」を自分で開発し、洗練させています。2026年現在、便利なツールやアプリも増えており、私たちの生きづらさを補完する方法は無限にあります。
大切なのは、「普通はこうするべき」という常識を疑うことです。自分が楽になり、結果として周りに迷惑をかけないのであれば、そのやり方はすべて「正解」です。ここでは、私が実際に生活に取り入れて、劇的にストレスが減った具体的な工夫をいくつかご紹介します。
「外部脳」としてのテクノロジー活用
私の最大の敵は「忘却」と「不注意」でした。これを克服するために、私は自分の記憶力を一切信用しないことにしました。すべてのスケジュールはスマートフォンのカレンダーに集約し、予定の1時間前、30分前、10分前に通知が来るように設定しています。また、音声入力を活用し、思いついた瞬間にメモを取る習慣をつけました。
家の中では、スマートスピーカー(Alexaなど)が私の秘書です。「洗濯機を回したことを15分後に教えて」と話しかけるだけで、没頭しすぎて忘れるという事態を防げます。テクノロジーは、私たちの欠落した脳の機能を補完する義足のようなものです。これらを使いこなすことは、恥ずかしいことではなく、賢い生存戦略なのです。
「情報の断捨離」と環境設定
ASDの特性から、私は情報の過多に非常に弱いです。そのため、部屋の中は極力シンプルにし、視界に入る色を統一しました。書類はすべてスキャンしてデータ化し、物理的な紙をなくしました。これにより、「探し物が見つからずにパニックになる」という地獄のような時間をゼロにすることができました。
また、対人関係でも情報の断捨離を行いました。すべての誘いに乗るのをやめ、自分が心地よいと思える少人数の集まりだけを優先するようにしました。SNSの通知もオフにし、自分が情報を処理できるキャパシティを超えないように調整しています。「自分の境界線を守る」ことは、健やかに生きるための絶対条件です。
感覚の調整で「疲れ」をコントロールする
感覚過敏への対策も徹底しました。外出時は必ずノイズキャンセリングヘッドホンを装着し、音の濁流から脳を守ります。衣服はオーガニックコットンなどの肌触りの良いものだけを選び、不快な刺激でイライラするのを防いでいます。これだけで、一日の終わりに感じる疲労感が以前の半分以下になりました。
また、疲れたときは「暗い部屋で、重い毛布をかぶってじっとする」というリセット方法を見つけました。これは「ディーププレッシャー(深い圧迫刺激)」と呼ばれ、ASDの神経系を落ち着かせる効果があります。自分の脳を「メンテナンスが必要な精密機器」として扱い、適切な休息を与えることで、パニックの発生を未然に防げるようになりました。
| 項 目 | 以前の私(自己否定) | 今の私(特性との共存) |
|---|---|---|
| ミ ス | 「死んでお詫びしなければ」 | 「仕組みが悪い。チェックリストを作ろう」 |
| 音の過敏 | 「わがままだから我慢しなきゃ」 | 「脳のバグ。ヘッドホンで防御しよう」 |
| 片付け | 「だらしない性格を直さなきゃ」 | 「視覚情報の過多。物の定位置を決めよう」 |
| 人付き合い | 「好かれるために擬態しなきゃ」 | 「疲れるから無理しない。理解者とだけ会う」 |
よくある質問(FAQ):診断を迷っているあなたへ
発達障害の診断を巡って、多くの方が抱く疑問や不安に、当事者の立場からお答えします。
Q1. 診断を受けて「障害者」というレッテルを貼られるのが怖いです。
その恐怖は非常によく分かります。しかし、診断を受けても受けなくても、あなたの脳の構造は変わりません。診断を受けることは「障害者になること」ではなく、「今、現に起きている困難に適切な名前をつけること」です。名前がつくことで、初めて具体的な対策や公的支援にアクセスできるようになります。レッテルを貼られるのではなく、自分を守るための「カード」を手に入れるのだと考えてみてはいかがでしょうか。
Q2. 診断を受けても、どうせ治療法はないんですよね?
確かに、発達障害を根本的に「治して定型発達者にする」薬や手術はありません。しかし、ADHDについては不注意や衝動性を和らげる効果的な治療薬が存在し、劇的に生活が楽になる人も多いです。また、ASDについても「環境調整」や「SST(ソーシャルスキルトレーニング)」という学びによって、社会への適応力を高めることができます。「治す」のではなく「生きやすく整える」ための手段は、想像以上にたくさんあります。
Q3. グレーゾーンと言われたら、余計に宙ぶらりんになりそうで不安です。
診断基準を満たさない「グレーゾーン」と判断される可能性ももちろんあります。しかし、医師から「診断はつかないが、こうした特性の傾向がある」と言われるだけでも、自己理解は大きく進みます。公的支援の対象にはならなくても、自分の凸凹を知ることで、自分なりのライフハックを組み立てる指針になります。診断の有無にかかわらず、「自分が何に困っているか」を言語化できたこと自体が、大きな財産になります。
未来への一歩:凸凹な自分を愛するために
診断を受けてからの私の人生は、バラ色に変わったわけではありません。今でも失敗して落ち込むことはありますし、社会の壁にぶつかることもあります。しかし、私はもう「自分が嫌いな自分」とは決別しました。不器用で、忘れっぽくて、音に敏感で、でも特定の分野には人一倍の情熱を注げる。そんな凸凹な自分を、「愛すべき自分の形」として受け入れ始めています。
発達障害は、欠陥ではなく「違い」です。この違いを否定し、無理に「普通」に合わせようとするのではなく、自分を活かせる場所を見つけ、自分を守る武器を揃えていくこと。それが、診断という扉を開けた先に待っている新しい景色です。あなたは、そのままで価値のある存在です。診断名は、それを証明するための強力な味方になってくれるはずです。
次にとるべきアクション
もしあなたが、今この記事を読んで「自分もそうかもしれない」と感じているなら、まずは以下の3つのステップを検討してみてください。
- 信頼できる専門医や相談機関を探す: 各都道府県にある「発達障害者支援センター」は、診断前の相談にも乗ってくれる心強い味方です。
- 自分の「困りごと」をリスト化してみる: 感情的にならず、事実(何が起きたか)だけを書き出してみましょう。これは受診時の貴重な資料になります。
- 「自分を責めるのを5分だけ休む」練習をする: 障害かもしれないという可能性があるのなら、今の苦しみはあなたのせいではありません。まずは深呼吸をしましょう。
あなたの人生の物語に、新しい、そして優しい章が加わることを心から願っています。
まとめ
- 診断名は「努力不足」という呪縛から自分を解放し、自己否定のサイクルを止めるための「赦し」の鍵となる。
- 知能検査(WAIS-IV)などの客観的データは、自分の脳の凸凹を理解し、建設的な対策を立てるための羅針盤になる。
- 障害を公表し「合理的配慮」を求めることは、自分を甘やかすことではなく、自分を最大限に活かすための賢明な社会参加の形である。

鈴木 美咲
(すずき みさき)42歳📜 保有資格:
社会福祉士、相談支援専門員
相談支援専門員として15年、障害のある方とそのご家族の「困った」に寄り添ってきました。実際の相談事例をもとに、当事者やご家族のリアルな声、具体的な解決策をお届けします。「一人で悩まないで」がモットーです。
社会福祉士として障害者相談支援事業所に勤務し15年。年間約100件の相談に対応し、サービス等利用計画の作成や、関係機関との調整を行っています。この仕事の魅力は、「困っている」状態から「解決した!」という笑顔に変わる瞬間に立ち会えること。ただし、制度が複雑で「どこに相談すればいいか分からない」という声を本当によく聞きます。特に印象深いのは、お子さんの障害を受け入れられず孤立していたお母さんが、同じ境遇の親の会に繋がり、「一人じゃないと分かって救われた」と涙ながらに話してくださったこと。情報と繋がりの大切さを実感しました。記事では、実際の相談事例(もちろん個人情報は特定できないよう配慮)をベースに、「こんなとき、どうすればいい?」という疑問に答えていきます。
もっと詳しく▼
💭 福祉の道を選んだ理由
大学のボランティアで障害のある方と出会い、「困っている」を「解決した!」に変える仕事がしたいと思ったことがきっかけです。
✨ 印象に残っている出来事
孤立していたお母さんが、親の会に繋がり「一人じゃないと分かって救われた」と話してくださったこと。
✍️ 記事を書く上で大切にしていること
実際の相談事例をもとに、「こんなとき、どうすればいい?」という疑問に答えることを大切にしています。
🎨 趣味・特技
ヨガ、カフェ巡り
🔍 最近気になっているテーマ
ヤングケアラー支援、家族のレスパイトケア





