難病が判明した時の衝撃と、その後の決断

平穏な日常が色を失ったあの日
大切なわが子の将来を思い描くとき、そこにはいつも明るい笑顔と健やかな成長があるはずです。しかし、ある日突然、医師から告げられる「難病」という言葉。それは、積み上げてきた幸せの風景を一瞬で塗りつぶし、出口のない深い霧の中に放り出されるような体験です。
私自身、息子の知的障害に加えて、原因不明の難病が判明したとき、心臓が凍りつくような衝撃を受けました。「なぜこの子が?」「これからどうすればいいの?」という問いが頭を巡り、足元が崩れ落ちる感覚を味わったのを昨日のことのように覚えています。
この記事では、難病判明時の衝撃から、どのようにして現実を受け入れ、家族として大きな決断を下してきたのか、その過程をありのままに綴ります。今、絶望の淵に立っているあなたが、少しでも「独りではない」と感じ、未来への微かな光を見つけるきっかけになれば幸いです。
診断名という名の重すぎる十字架
青天の霹靂だった医師の宣告
息子は1歳を過ぎても言葉が出ず、歩き方も不安定でした。最初は「男の子だから成長がゆっくりなのだろう」と、楽観的に考えていたのです。しかし、精密検査の結果を告げる診察室の空気は、これまでとは明らかに違っていました。医師が静かに告げたのは、数万人に一人と言われる希少な進行性難病の診断名でした。
その瞬間、世界から音が消えたような気がしました。医師の説明が頭の上を通り過ぎ、隣に座る夫の顔を見ることもできませんでした。「治療法は確立されていません」という言葉が、まるで死刑宣告のように心に突き刺さりました。知的障害だけでなく、身体の機能も次第に失われていく可能性があるという現実に、ただ震えることしかできませんでした。
診察室を出た後の病院の廊下。行き交う人々が皆、自分たちとは違う世界の住人のように見えました。日常は続いているのに、私たちの日常だけが音を立てて崩れ去った。その圧倒的な断絶感こそが、難病判明時の最初の衝撃でした。
「普通」の未来を失う悲嘆
診断名がついた日から、私はそれまで描いていた「普通の幸せ」をすべて捨てなければなりませんでした。ランドセルを背負って小学校に行く姿、友達と泥だらけになって遊ぶ姿、いつか自立して家庭を持つ姿。それらがすべて、決して届かない幻に変わってしまったのです。
夜、スヤスヤと眠る息子の顔を見ていると、涙が止まりませんでした。「ごめんね、健康に産んであげられなくて」という根拠のない自責の念が、何度も何度も私を責め立てました。親としての無力感と、これから始まる過酷な運命への恐怖。それは、経験した者にしか分からない深い孤独の闇でした。
周囲の友人たちがSNSにアップする、子供の成長記録。それを見るたびに、胸をナイフでえぐられるような痛みを感じました。他人の幸せを素直に喜べない、醜い感情に支配されていく自分自身も嫌でたまりませんでした。心はボロボロになり、私はしばらくの間、社会との繋がりをすべて断ち切ってしまいました。
情報の海で溺れる苦しみ
少しでも希望を見つけたくて、私は夜通しスマートフォンで病気について検索し続けました。しかし、ネット上に並んでいるのは「予後不良」「悪化」といったネガティブな言葉ばかり。海外の論文まで読み漁りましたが、そこに書かれているデータは非情な現実を突きつけるだけでした。
稀な病気ゆえに、当事者の声もほとんど見つかりませんでした。誰に相談していいのか、誰にこの苦しみをぶつければいいのか分からない。情報の海を彷徨えば彷徨うほど、不安は雪だるま式に膨れ上がっていきました。「正解のない問い」を解き続けようとするエネルギーは、私から生気を奪い去っていきました。
この時期の私は、今思えば完全に「告知後のパニック」状態にありました。論理的な思考ができず、藁にもすがる思いで高額な民間療法に手を出そうとしたこともあります。極限状態にある親にとって、情報の取捨選択がいかに困難であるかを、身をもって知りました。
絶望の底で出会った一筋の光
ピアサポートという救い
引きこもっていた私を救い出してくれたのは、病院のソーシャルワーカーさんから紹介されたピアサポート(同じ悩みを持つ仲間による支援)の場でした。同じような難病を抱える子供の親たちが集まる小さな会に参加したとき、私は初めて「深呼吸」ができた気がしました。
私が言葉にできなかった恐怖や、ドロドロとした感情。それらを、彼女たちは「分かるよ、本当に辛いよね」と丸ごと受け止めてくれました。専門家のどのアドバイスよりも、同じ痛みを知る人の一言が、乾ききった私の心に染み渡りました。「独りではない」という実感は、絶望を生きる力に変えるための何よりの特効薬でした。
彼女たちは、病気のしんどさを語るだけでなく、その中にある「小さな喜び」を語り合っていました。「今日はスプーンが持てた」「こんな表情をしてくれた」。絶望のど真ん中にいても、人は笑うことができるのだと知ったとき、私の心の中に止まっていた時計の針が、ゆっくりと動き出しました。
「今」を生きる子供の強さ
私が未来を案じて泣いている間も、息子は目の前の日常を懸命に生きていました。どんなに病気が進行しようとも、彼は美味しいものを食べれば笑い、私が抱きしめれば嬉しそうに声を上げます。彼にとって、昨日の後悔も明日の不安もありません。あるのは「今、この瞬間」の輝きだけでした。
ある日、リハビリの最中に息子が私の手をぎゅっと握り、真っ直ぐに目を見つめてくれました。その瞳は、「ママ、僕は今ここにいるよ。一緒に笑おうよ」と言っているように見えました。障害や病気は彼の一部であって、彼のすべてではない。その当たり前の事実に気づいたとき、私の視界を覆っていた霧が、少しずつ晴れていきました。
彼の命は、誰かと比べるためのものではない。彼が彼として、この世界に存在していること自体が奇跡なのだ。そう思えるようになってから、私の「できないこと探し」は終わりました。「どうやってこの子を治すか」ではなく、「どうやってこの子と機嫌よく生きていくか」。人生の舵を大きく切り替えた瞬間でした。
支援チームという心強い盾
現実に立ち向かうためには、一人では限界があることも学びました。私たちは、主治医だけでなく、訪問看護師、理学療法士、相談支援専門員など、多職種のプロフェッショナルで構成される「チーム息子」を作りました。彼らは医療的なケアだけでなく、私たちの精神的な支えにもなってくれました。
「夜中に体調が急変したらどうしよう」という不安は、訪問看護の24時間体制によって和らげられました。「生活環境をどう整えればいいか」という悩みは、理学療法士さんの具体的なアドバイスで解決しました。社会の仕組みを借りることは、決して「甘え」ではなく、家族が共に幸せに生きるための賢明な生存戦略なのです。
支援者が増えるたびに、私の肩の荷が少しずつ軽くなっていくのを感じました。チームで息子を支えることで、私は「介護者」である前に、再び「一人の母親」に戻ることができました。プロに任せられる部分は任せ、私は私にしかできない「全力で息子を愛する役割」に専念する。その役割分担が、家族の安定に繋がりました。
💡 ポイント
難病の子供を育てる際、親が「全責任を負う」必要はありません。福祉サービスや地域のネットワークを最大限に活用し、多層的な支援の輪を作ることが、共倒れを防ぐ唯一の方法です。
未来への大きな決断と方向転換
仕事と介護のバランスを見直す
難病が判明してから、最大の課題となったのが「私の働き方」でした。それまではフルタイムでキャリアを積んできましたが、息子の頻繁な通院や体調不良への対応を考えると、以前のように働くことは物理的に不可能になりました。仕事を辞めるか、続けるか。それは、私のアイデンティティに関わる大きな決断でした。
周囲からは「子供が大変なんだから、辞めるのが当たり前」という無言の圧力を感じることもありました。しかし、私は仕事を完全に辞めてしまうと、自分の世界が息子の病気一色に塗りつぶされてしまう恐怖を感じていました。会社と何度も交渉を重ね、結果として「短時間勤務への変更」と「リモートワークの活用」という選択肢を選びました。
キャリアの停滞に焦りを感じることもありましたが、結果としてこの決断は正解でした。社会との接点を持ち続けることが、私の心の健康を守る大きな砦となったからです。「親の人生も大切にする」ことが、巡り巡ってお子さんへの質の高いケアに繋がるのだと、今は確信しています。
住宅改修という物理的な覚悟
進行性の病気を見据え、私たちは早い段階で自宅のリフォームを決めました。まだ息子は這い這いができる状態でしたが、将来的に車椅子が必要になることを見越し、段差をなくし、浴室にリフトを設置できる下地を作りました。それは、「この病気と共に生きる」という決意表明でもありました。
リフォーム費用は高額でしたが、自治体の補助金制度を徹底的に調べ、相談支援専門員さんの力を借りて申請を行いました。物理的なバリアをなくすことは、私たちの心のバリアを壊すことにも繋がりました。「家の中なら安全だ」という確信が、日々の生活に安心感をもたらしたのです。
✅ 成功のコツ
住宅改修などの大きな投資を伴う決断は、現状だけでなく「5年後、10年後の身体状況」を予測して行うことが大切です。理学療法士(PT)など、身体のプロに同席してもらい、将来を見据えたプランニングを行いましょう。
「特別支援学校」という教育の選択
就学にあたり、地域の小学校の支援学級か、特別支援学校かという選択も大きな岐路でした。「普通の子と同じ環境に置いてあげたい」という親のエゴを捨てるのには時間がかかりました。しかし、息子の難病による身体的な疲れやすさや、きめ細かな医療的ケアが必要な現状を直視したとき、答えは自ずと決まりました。
特別支援学校の見学に行った際、そこで生き生きと過ごす子供たちと、専門的な知識を持った先生方の姿を見て、胸のつかえが取れました。ここは「隔離された場所」ではなく、「本人が主役になれる場所」なのだと理解できたからです。世間の目よりも、息子の笑顔が最大化される場所を選ぶ。その決断が、私たちの生活に新しい調和をもたらしました。
学校では、個別の教育支援計画に基づき、彼の能力と体力に完璧に合わせた指導が行われています。無理をさせず、でも可能性を諦めない。そんな教育環境に身を置くことで、息子の情緒は非常に安定しました。周りと比べる必要のない世界で、彼は彼自身のペースで、ゆっくりと成長しています。
難病と共に生きる「新しい日常」の作り方
生活リズムを「病気」ではなく「本人」に合わせる
以前は「朝は何時に起きて、3食しっかり食べて」という一般的な生活リズムに息子を当てはめようとして、親子で疲弊していました。しかし、難病のある子にとって、体調は日によって、あるいは時間単位で波があります。私たちは、その日の「本人のバイタルと機嫌」を最優先にする生活に変えました。
疲れているときは朝寝坊を許し、食欲がないときは無理に食べさせず、栄養補助食品を賢く使う。行事などのスケジュールも「全参加」にこだわらず、体力を温存して「いいとこ取り」をする。生活の基準を「世間の常識」から「わが子の健やかさ」へシフトしたことで、家の中の空気が驚くほど軽くなりました。
また、介助にかかる時間をあらかじめ多めに見積もっておくことも、親の心の余裕に繋がります。「10分で終わらせなきゃ」と思うとイライラしますが、「30分かけてゆっくり向き合おう」と思えば、介助の時間も豊かなコミュニケーションの時間に変わります。時間の流れを緩やかにする工夫が、難病育児には欠かせません。
「思い出」を資産にする工夫
難病という不確かな未来を持つ私たちにとって、最も価値があるのは「今、この瞬間の思い出」です。私たちは、体調が良い時期を見計らって、積極的に旅行や外出の計画を立てるようにしています。もちろん、車椅子での移動や酸素ボンベの準備など、準備は通常の何倍も大変です。
それでも、初めて海を見たときの息子の驚いた顔や、風を感じて笑った声を写真や動画に収めることは、私たち家族にとっての「心の貯金」になります。将来、もし病気が進行して外出が難しくなったとしても、この思い出があれば私たちは何度でも幸せな気持ちに戻れる。そう信じています。
日々の何気ない瞬間も、意識的に記録に残しています。スプーンを持てた瞬間、私を呼んだ気がした瞬間。そんな「小さな奇跡」を書き留める日記は、今や私の宝物です。絶望の淵にいた私に教えてあげたい。難病があっても、こんなにも美しい景色を何度も見ることができるんだよ、と。
自分自身のケアを「タスク」に組み込む
親が燃え尽きてしまっては、継続的な支援は不可能です。私は、意識的に自分の趣味やリラックスの時間を「生活のスケジュール」に組み込むようにしました。週に一度、数時間だけヘルパーさんに息子をお願いし、私はカフェで本を読んだり、美容院に行ったりします。
最初は「子供を置いて自分だけ楽しむなんて」と罪悪感を感じていました。しかし、ある時看護師さんにこう言われました。「お母さんは、家庭という病院の院長先生なんです。院長が過労で倒れたら、病院は潰れてしまいますよ」。その言葉で、自分を大切にすることは責務であると理解しました。
私がリフレッシュして笑顔で帰ってくると、息子も嬉しそうに迎えてくれます。親の心の安定は、目に見えない絆を通じてお子さんに伝わります。「自分のための時間」を持つことは、巡り巡ってお子さんへの最高のプレゼントになるのです。
✅ 成功のコツ
「息抜き」をその時の気分で行うのではなく、あらかじめ「第2火曜日の午後は自分の時間」とカレンダーに書き込んでしまいましょう。定期的な休息は、突発的なストレスに対する回復力を高めてくれます。
よくある質問(FAQ)
Q1. 難病を公表すべきかどうか迷っています。
公表するかどうかは、ご家族の気持ちが最優先です。ただ、私の経験上、信頼できる近親者や友人、学校の先生などに事情を話しておくことで、「隠し事をするストレス」から解放され、周囲の協力も得やすくなりました。すべての人に言う必要はありませんが、味方になってほしい人には、事実を淡々と伝えておくことをお勧めします。隠すことは、時に自分たちを孤独に追い込む結果になるからです。
Q2. 兄弟児への接し方に悩んでいます。
難病の子供がいる家庭では、どうしても生活がその子中心になりがちです。兄弟児は、親の苦労を察して「いい子」でいようと無理をしたり、寂しさを隠したりすることがあります。私たちは、週に一度、兄弟児とだけ過ごす「スペシャルタイム」を作っています。弟の病気のことではなく、その子の好きなことや悩みだけを聴く時間。一人ひとりが大切にされているという実感を持たせてあげることが、家族全体のレジリエンス(回復力)を高めます。
Q3. 治療法がないと言われ、何を支えにすればいいか分かりません。
「治ること」だけを目標にすると、出口のない暗闇に迷い込んでしまいます。目標を「治る」から「今、心地よく過ごす」にシフトしてみてください。医学は日々進歩しています。今この瞬間のQOL(生活の質)を高く保ち、お子さんが笑顔でいられる環境を整え続けること自体が、立派な「治療」の一つです。今日一日を平穏に過ごせたなら、それは大きな勝利です。自分たちを褒めてあげてください。
Q4. 経済的な負担が不安で夜も眠れません。
難病や障害に関する公的な助成制度は、驚くほど多岐にわたりますが、自分から動かないと情報は届きません。まずはお住まいの自治体の障害福祉課や保健所を訪ね、「小児慢性特定疾病の助成」や「障害児福祉手当」などの対象になるかを確認してください。また、病院のソーシャルワーカーさんに家計の状況を正直に話し、利用できる制度をすべて洗い出してもらうことが、不安を解消する第一歩です。
⚠️ 注意
難病の認定基準や助成制度は、頻繁に改定されることがあります。一度「対象外」と言われた場合でも、数年後に対象になるケースもあります。定期的に情報をアップデートするように心がけましょう。
まとめ:絶望の先にある、新しい愛のカタチ
「失ったもの」ではなく「得たもの」を見つめる
難病が判明したあの日、私は人生のすべてを失ったと思いました。しかし、数年経った今、私たちの手の中には、あの頃には想像もしなかった豊かな世界が広がっています。病気がなければ出会わなかった仲間、病気がなければ気づかなかった人の優しさ、そして、何物にも代えがたい「命の重み」を私たちは知りました。
障害や病気は、不自由ではあっても、決して「不幸」ではありません。幸せの形は、自分で決めるものです。世間が決めた「普通」の物差しを捨てたとき、私たちは本当の意味で自由になれました。わが子が今日、笑っている。それ以上に大切なことなんて、この世には一つもないのです。
今、告知の衝撃の中にいるあなた。今は、無理に前を向こうとしなくて大丈夫です。まずは、たくさん泣いて、自分の心の傷を認めてあげてください。そして、少し落ち着いたら、周りに手を差し出してみてください。あなたの物語は、ここで終わりではありません。難病と共に歩む新しい、そして深い愛に満ちた物語が、ここから始まっていくのです。
次の一歩へのアクション提案
まずは今日、自治体の窓口や病院のソーシャルワーカーさんに、「今の不安」を話す時間を作ってみませんか。具体的な制度の説明を受けるだけで、頭の中の霧が少しずつ晴れてくるはずです。そして、同じ病気の家族会やSNSのコミュニティを覗いてみてください。あなたが抱えている孤独を分かち合える誰かが、必ずそこにいます。一人で抱え込まず、社会という大きなチームに、あなたとわが子を委ねてみてください。
✅ 成功のコツ
自分たちだけで何とかしようと思わず、まずは「情報を集める窓口」を一箇所確保しましょう。信頼できる担当者が一人いるだけで、精神的な負担は激減します。あなたの「助けて」は、希望への第一歩です。
まとめ
- 衝撃と悲嘆を正しく受け止める:難病判明時のショックや自責の念は自然な反応。無理にポジティブになろうとせず、まずは自身の感情に寄り添うことが回復の第一歩。
- 「今」のQOLを最優先に決断する:仕事、住宅、教育などの大きな選択において、世間の常識よりも「本人の笑顔と体調」を基準に据えることで、家族の幸福を最大化できる。
- 支援の輪(チーム)を構築する:医療、福祉、仲間の力を借りて孤立を防ぐ。親が一人で全責任を背負わず、適切な役割分担を行うことが持続可能な育児の鍵。

鈴木 美咲
(すずき みさき)42歳📜 保有資格:
社会福祉士、相談支援専門員
相談支援専門員として15年、障害のある方とそのご家族の「困った」に寄り添ってきました。実際の相談事例をもとに、当事者やご家族のリアルな声、具体的な解決策をお届けします。「一人で悩まないで」がモットーです。
社会福祉士として障害者相談支援事業所に勤務し15年。年間約100件の相談に対応し、サービス等利用計画の作成や、関係機関との調整を行っています。この仕事の魅力は、「困っている」状態から「解決した!」という笑顔に変わる瞬間に立ち会えること。ただし、制度が複雑で「どこに相談すればいいか分からない」という声を本当によく聞きます。特に印象深いのは、お子さんの障害を受け入れられず孤立していたお母さんが、同じ境遇の親の会に繋がり、「一人じゃないと分かって救われた」と涙ながらに話してくださったこと。情報と繋がりの大切さを実感しました。記事では、実際の相談事例(もちろん個人情報は特定できないよう配慮)をベースに、「こんなとき、どうすればいい?」という疑問に答えていきます。
もっと詳しく▼
💭 福祉の道を選んだ理由
大学のボランティアで障害のある方と出会い、「困っている」を「解決した!」に変える仕事がしたいと思ったことがきっかけです。
✨ 印象に残っている出来事
孤立していたお母さんが、親の会に繋がり「一人じゃないと分かって救われた」と話してくださったこと。
✍️ 記事を書く上で大切にしていること
実際の相談事例をもとに、「こんなとき、どうすればいい?」という疑問に答えることを大切にしています。
🎨 趣味・特技
ヨガ、カフェ巡り
🔍 最近気になっているテーマ
ヤングケアラー支援、家族のレスパイトケア





